●1916年(大正5年)大阪市に生まれる。
●1930年(昭和5年) 日本歌劇の創始者・伊庭孝に師事、楽劇理論を学ぶ。15歳で伊庭の主宰する歌劇団で巡業、初舞台を踏む。
●1933年(昭和8年) RCAチェーン劇場にマジソン・ダンサーとして出演。ブロードウェイ・ミュージカル「クォーター・ツ・ナイン」をウィンター・ガーデン劇場で、シンフォニック・タップにアレンジ、ソロ出演。これが、シンフォニー・ズッペの序曲「詩人と農夫」として大ヒット、シンフォニック・ジャズ台頭の先駆ともいえる記念すべき公演。出演していたスターは、ジーン・パウエル、ドナルド・オコーナーら。
●1935年(昭和10年) 母の死で帰国。
●1936年(昭和11年) 日比谷公会堂帰国第1回公演。満員の会場で3時間、無我夢中で踊り、その後吉本興業の専属ダンサーとなる。
以後、主に鑑賞用舞台で新しい手法を次々と披露して、一時代を築き、今日のミュージカルの土台を創る。
@フラッシュ・アクトの演出方法
A演奏楽団の舞台演出
Bシンフォニック・ジャズの誕生
●1937年(昭和12年) 日本初のミュージカル映画「舗道の囁き」に主演。
●1939年(昭和14年) 東宝に移り、北野劇場で「中川三郎ハタアズ」の旗揚げ公演。
●1940年(昭和15年) 新興演劇部誕生。戦時色濃く、ダンスホール関係一切閉鎖
●1941年(昭和16年)
第二次世界大戦勃発。
●1951年(昭和26年) 開局したNHKのビデオ第1回試作として、音楽一家の15分番組を作り、テレビPR。
●1952年(昭和27年) 実験劇場コーパを大岡山にオープン。外国のミュージカル映画等を上映。
●1955年(昭和30年) 全日本職業舞踊家協会設立。初代会長となる。
●毎年各レコード会社とタイアップし、新ダンスを発表。“カリプソ” “マジック” “ドンドン” “ツイスト” “ボサノバ” “タムレ”
“サーフィン” “ジェンカ”等発表。
●1958年中川三郎ダンススタジオ設立。全国74ヵ所で社交ダンス初のスタジオネットワークを展開。同時にクラウンレコードよりダンスミュージックレコードを7枚連続発売。全国に社交ダンスを広める。
●1965年(昭和40年 3月、“ロマンティカ”を公開。赤坂プリンス・ホテル。「男女が密着して踊る、社交的かつ情熱的な、ロマンチック・ムードのダンス。初心者にも、すぐ踊れる」
8月、麻布プリンス・ホテルで“ジェンカ”を公開。
三女 ゆきが、ディスコティック「ゆき・ア・ゴーゴー」(恵比寿)をオープン。11月、国際アカデミー大衆芸術賞受賞。
●1966年(昭和41年) 9月、ダンス・スポット「ステップ・ヘブン」(銀座)をオープン。
●1968年(昭和43年) 8月、佐藤栄作総理大臣より紺綬褒賞を受ける。 10月、「上級ダンス技術」出版。
●1969年(昭和44年) 6月、“キャティリオン運動”のキャンペーン。赤坂プリンス・ホテル。少年少女にダンスを通じて、正しいマナーやエチケットを楽しく体得させる。また「キャティリオン・クラブ」は、男2人女2人のグループを母体にして、ファッション、音楽、ダンスなどを通じて新しい交際法やエチケットを学び、身につけていこうというもの。
●1970年(昭和45年) “スキンシップ思考”のキャンペーン。「中川三郎の触感思考」出版。
●1977年(昭和52年) 7月、フウズフー(米国)世界著名人録永久会員として登録される。 10月、日本ダンス113年にわたる全史を収録した「ダンス元年」を編集・出版し、全国図書館に寄贈。
●1979年(昭和54年) 5月、ダンス生活50周年記念祭をホテル・オークラで催す。 11月下旬から10日間、自伝風ミュージカル「ザ・グレート・ダンサー」を公演。銀座・博品館。
「世界ダンス審議会」(ニューヨーク)に日本代表として出席。ジャズ・ダンスの新しい流れ、“ジャギー”の開発を採択させる。
●1981年(昭和56年) 「ジャギー教本」(産経学園刊)を出版。さらに、「ジャギー・レッスン」(ポニー・カセット・テープ)、ビデオ「ジャギー教室(基礎編・応用編)」(TBSスポーツ・ニュース)を発売。MBO
NOVA」公開。
●1982年(昭和57年)
3月、ジャズ・ダンスの歴史とその未来−「中川三郎の世界」展(大丸デパート)を開催。 8月、全国のジャギー教室の数は、60数教室に及び、その総受講者は30万人を優に超える。
●1983年(昭和58年) “ジャギー”公演。歌舞伎座。
●1985年(昭和60年) 長年にわたりダンスの普及、向上に努めた功績により、藍綬褒賞を受賞。
●1988年(昭和63年) 11月、社会文化功労賞を受賞。
●2003年(平成15年) 10月、永眠 享年85歳
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